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2012.12.19

沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける

「沖縄で今やらせてもらっていることが、すべて」
食材探しも、ケータリングも、たいへんで、面白い

  • main199 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける
    ケータリング先では料理のサーブも小島さん自らが行う。お客さんからはあらゆる質問や会話が飛ぶ。
  • main284 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける
    ある日の出張メニューから、紅豚のタンと頭肉、山城牛の腿肉、伊江島合鴨の腿肉などのパテ・アン・クルート。
  • main377 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける
    オーブンで4時間半焼き、甘みを引き出した島大根。近海魚のスープに添える。
  • main442 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける
    島大根の丸焼きと近海魚(アサヒガニ、舌平目)のスープ。島大豆のソースの他、土とカカオ、蟹の甲羅の香りといっしょに味わえる仕立て。
  • main527 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける
    国頭村産猪豚足のガイエット。下にのぞいている緑はズッキーニ。

sub124 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける

小島さんの仕事場。壁には日本料理で盛りつけに使われるまな箸も包丁などといっしょに並んでいる。

sub223 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける

仕込みのため用意されたハヤトウリの蔓やナスタチウムの花などは沖縄に存在しながらも口にする機会は少ない。

sub323 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける

アグー(琉球在来豚)、琉球猪、金華豚などを何年もかけて生ハムにする。

sub412 沖縄の食材で フランス料理をつくりつづける

現在、沖縄本島中部のうるま市で暮らす。海や畑など静かな風景が広がる。

縄にある食材でフランス料理のコースを組み立て、仕上げに必要な調理道具や器を積んでのケータリング。そんな仕事に一人で向かい合っている料理人がいる。

「名前のない料理店」の小島圭史さんが、ケータリングというスタイルをとって約3年。客層の多くは30~50代のグループで、週3回のペースで個人宅に出張するのを基本に、結婚披露の食事会や店舗の周年祝い、沖縄で親戚じゅうが集まるトゥシビー(生年祝い)の席、県外からも声がかかる。

知っているつもりの、あるいは全く知らなかった沖縄の食材が、想像もしない料理と味覚になったことへの鮮烈な驚き。記憶に残る味。多くの人が「名前のない料理店」に惹かれる理由はそれだけではないのかもしれない。お皿の上には、小島さんが出会ってきた生産者を含む様々な人とのつながりがのっている。何だか楽しげで、幸せな、人と人の、人と食の関係。

例えば、彼はこんな風にして生産者と出会う。

「道路沿いに〈食用兎〉と手書きで書かれた黄色い看板が出ていて…。たまらなくなって飛びこんだら、80歳くらいの爺さんたちが、これから兎がいけるんじゃないかってユンタク(おしゃべり)しながら企んでるんですよ。おもしろい人でね。兎のことを相当勉強してる。内臓(手に入りにくい)も入った状態で渡されるので、内臓料理もできる」

在来種の琉球猪は猟友会から分けてもらい、自分で解体から始める。「野生なのに軽やかな味なんです。味は深いけれど、澄んでいる。甘みがあってとてもおいしい」

例を挙げればきりがないが「その畑は土がよくて土を料理に使うこともできる」島ごぼう。ある島の砂地で「ぶりぶりに太った野菜ではない」豆や葉野菜を育てている人。山で草だけを食べさせながら飼われているヤギミルクの抜群の味……。

「こういう方々がつくる畜産や野菜の質がとても高いなぁと思うんです。僕が料理したいと純粋に思うし、食べてくれる人とのつながりは料理でできる」

だが、出張料理というスタイルは、当初、彼にとって苦肉の策だった。

小島さんは東京と静岡で育っている。14歳の時、父親が他界し、身の振り方を考え始めた。学校を出た後、就職したのは航空会社。多様な土地と料理に触れるうち、料理を仕事にするという方向転換に踏み切る。知人から日本料理店を紹介してもらい、若い先輩ばかりの厨房で人の3倍働いたが、生意気だと嫌われた。

「引っ込んでろ!」。親方から怒鳴られている時、カウンターに客として座っていたフランス料理店のシェフが声をかけてくれた。

「生まれながらの料理人なんていない。皆いろんな道をたどってきたんだ」と。

このシェフの店で出直しながら、夜間の料理学校にも通い、スタジエとして他の4つのフランス料理店、パリの店を経験する。

自分の店を持たないかという話にのらなかったのは、長年、土台なしで走り続けてきたからだ。

航空会社に勤めていた頃、「日常の中に美がある」と感じていた沖縄。11年前、好きな土地で自分に何ができるのか確めようと居場所を変えた。

だが、ホテルやレストランでシェフを任されても中身は東京と変わらない焦りから、フランスへと渡る。この時に部門シェフを任された1年半、そして帰国後、読谷村の瓦屋で小さな自然学校を営む夫婦と出会い、夜間に瓦屋を借りて営業を始められたことは、彼にとって大きい。

独自の姿を認め合うことや失敗することを大事にする学校。行動の一つひとつが鮮烈で瞬間に変化していく子どもたち。瓦屋でフレンチを気軽に味わえるランチイベント。学校の周辺にも広がる畑。村の暮らし。人との出会い。

しかし、1年半後、瓦屋での営業ができなくなる事情に至り、落胆の色は隠せなかった。

こうして3年前、苦肉の策で始めたケータリングであるが、今、小島さんはそのスタイルをこれからもずっと続けていきたいという。

「気に入ってるんだろうね。完全にアウェイで仕事をすることの面白さがある。お店のルールに合わせてもらうのではないから、お客さんのリラックス度も違うし、調理場に子どもががつがつ入ってきたり(笑)。でもそういう時のやりとりが面白かったりするんですよね。長寿のお祝いの席などでは特に出張する意味があるとも思う」

フレンチの主流ではない場所に身を置いている不安は、常に小島さんの胸に潜んでいる。だが同時に、沖縄の食材でフランス料理をつくりつづけたいと彼はゆるぎなく言う。

「東京やフランスの仕事を、沖縄の食材でそのまま再現はできないんですね。東京と同じフランス料理をやっても面白くないし、この土地の文化にならない。言う人に言わせれば僕の料理はフレンチじゃないかもしれない。でも、フランス料理を僕がいいなと思うのは、新しくしていくこと。伝統を重んじながらも、思いもよらなかったことを生み出すことや新しく更新していく感じがフレンチにはあると思うんですね。そういうことをここでちゃんとやっていきたい」

11年前。沖縄に移住したばかりの頃は沖縄ばかりを見ていた。自分がよそ者だという意識が強くもあった。今は、沖縄から他の土地をも見ている。沖縄にしっかりと立ち、ここから料理を通して伝えたいことがたくさんある。

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