24歳の若さで激しい落差の天と地を経験したからこそ、世界最高の舞台で頂点到達を目指す決意を固め直した。Jeep好きなら応援せずにはいられないスキーヤーを紹介する。
目標は、日本人初制覇とメダル獲得
2022年末の苗場は、一晩でクルマを覆いつくすほどの大雪に見舞われていた。そんな白一色の世界でも、日本屈指のスキー場から徒歩3分のペンション、苗場ラ・ネージュが際立っていたのは、三角形を多用したユニークな建築構造だけでなく、全面ウッドパネルの壁が常緑樹を思わせる緑色だったからだ。さらに出窓の下にはオレンジ。差し色が利いたこの配色ならば、誰もが迷わずたどり着けるような安心感を醸し出すのかもしれない。
その軒先に、『ジープ グラディエーター(Jeep Gladiator)』。都会では長大に思えたピックアップも、しんしんと雪が降り続ける山の中では、さも当然の佇まいを見せるから不思議だ。
「少し前の夏にカリフォルニアでトレーニングをしたとき、偶然見かけて驚きました。
『ジープ ラングラー(Jeep Wrangler)』にもピックアップがあるんだって。その瞬間から、これ一択です。田舎のペンションは荷物を運ぶ機会が多いんですね。冬場のストーブ用や夏場のテントサウナ用の薪とか。そのために普通は軽トラを使うんですけど、ウチにはなかったからグラディエーターが最高だろうと。僕のスキーやトレーニング用のMTBを積むのも、ラングラーよりずっと楽ですし」
それが若月隼太氏のグラディエーター活用法。彼がウチと言ったのは、緑色のペンション、苗場ラ・ネージュ。そこが隼太氏のホームだ。
新潟の湯沢町生まれ。「何歳で始めたか覚えていない」ほど幼い頃からスキーに親しみ、やがて世界で戦うアルペンスキーヤーとなった。だが現在は、彼の競技人生において何度目かの逆風に晒されている。
およそ2年かけて出場権を奪還した昨シーズンのワールドカップ。3月の再デビュー戦1本目で転倒し膝の靭帯断裂。手術からリハビリを経てエントリーした12月の大会でも負傷。となれば絶望の淵にいるのではないかと思っていたのだが、出迎えてくれた隼太氏は、こちらが拍子抜けするくらい平然としていた。それどころか、かねてから公言している「日本人初のワールドカップ制覇とオリンピックメダル獲得」の目標は何ら変わっていないと言うのである。
24歳になる若者がその決意をさらに固めた経緯を聞いて、ただ頷くしかなかった。どうやら彼がここまで過ごしてきた時間は、常人の何倍も密度が高いようだ。
イタリア単独行で気づいた当たり前を積み重ねる大事さ
アルペン界期待の新星だった。全国中学生スキー大会2位。JOCジュニアオリンピックカップ3位。これを受けて高校入学と同時にナショナルチームへ。2016年から2018年まで国体3連覇。大学生になった20歳の2019年は、冬季ユニバーシアード大回転5位。全日本学生スキー選手権スーパー大回転優勝。翌2020年の全日本学生スキー選手権大回転でも優勝し、同年には地元の苗場で開催されたワールドカップの出場を果たす。それが50番台の振るわぬ結果だったとしても、ここまでの成績に鑑みれば将来有望と目していいはずだ。ところが、6年間在籍したナショナルチームから外れることになる。
「結果が出ないと来年がないと知らされて、初めて引退を意識しました。40歳になっても競技ができると思っていたんですけれどね。だから子どもの頃は、賢太郎さんや明さんの前で、俺もワールドカップに出て勝つと言えたんです」
彼が挙げた名前は、いずれも日本を代表するアルペンスキーヤーだ。皆川賢太郎氏は、同じ湯沢町出身のオリンピアン。また、RealStyleに何度も登場してくれた佐々木明氏も、40歳となった2022年に現役復帰を宣言したオリンピアンである。
「あの頃は負ける夢ばかり見て、だいぶ落ち込みましたが、すぐに考えを変えたんです。もっとハングリーになって、結果さえ出せばいいんだと」
▲©︎watanabe shin
そこで隼太氏は、日本人の先輩が所属していたイタリアのチームを頼って苗場を離れた。その際の資金は、自らスポンサーを回って集めたという。
それが2021年から2022年。たった一人の挑戦は、2年目に成果を表した。ヨーロッパのFISレース初優勝。ヨーロッパカップでは日本人最高位の5位入賞。この戦績が先述のワールドカップ出場権の奪取とナショナルチームへの再選出につながるのだが、かつてない気づきを得たのは、誰も知らない場所に自らを送り込んだ1年目だった。
「コーチが繰り返し口にしたのはpatience。“我慢”という意味ですが、イタリアに行った当時の僕は、常に新しいことにトライしたくて焦っていたみたいなんです。ずっと一番じゃなきゃ嫌だったから。けれど結果は必ずついてくる。今は耐えて自分の滑りに集中しろとコーチは言い続けてくれた。それが翌年、本当に結果につながりました。滑り自体は特に変えていないのに」
このときの経験が現在の心境にも大きな影響を与えているという。
「どんな準備をすればいいのか、そこにフォーカスしたら自ずと結果はついてくるという、当たり前を積み重ねる大切さを知りました。だからレースに出られない今だからこそ集中すべきことがあると割り切れる。焦りはないですね。将来の計画も4年単位で考えるようになりました。逆算すると1年目の現在は、基礎をつくり直す期間に充てられますから」
それはオリンピックを見据えた話だろうか。
「やっぱり日本ではオリンピックの知名度が高いですからね。もちろんワールドカップの日本人、いやアジア人初制覇も僕が最初に成し遂げたい。とにかく、最高の舞台の一番高いところにたどり着けなればわからない答えがあるはずなんです。今の僕は、それを探す旅を続けている最中です」