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2017.06.25

My Jeep®,My Life. ボクとJeep®の暮らしかた。写真家・若木信吾

若木信吾さんと、栃木県・益子町へ。写真家としての原点とは?

ジープを中心としたコミュニティ・プロジェクト「CREATIVE GARAGE」では、ウェブマガジン『フイナム』、J-WAVEのラジオ番組「Jeep® CREATIVE GARAGE」と連動して、「現代のスタンダード」をテーマに新しい創造のきっかけとなるアイデアや情報の数々をお届けしています。連載第3回目は、写真家・若木信吾さんが登場。幼い頃から写真を撮り続けて来たという若木さんのルーツ、そしていま抱いている写真への想いを語ってもらいました。

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はじまりはおじいちゃんが買ってきたコンパクトカメラ。

写真家として様々な雑誌や広告を中心に活躍する一方で、写真集も精力的にリリースする若木信吾さん。長いキャリア築き上げながらも、それにおごることなく、好奇心にあふれる少年のような心を持って自身のやりたいことと真摯に向き合っている。写真を撮るという行為は誰にでもできるが、そこには若木さんにしか写せない瞬間が切り取られている。なぜ、そんな写真が生まれるのか? 自身と縁深い場所、栃木県芳賀郡にある益子町を訪れ、若木さんと写真の関係を紐解く。

「はじめてカメラに触れたのは小学生のときです。ちょうどフィルムのコンパクトカメラが出てきた頃で、テレビのCMを見て『おもしろそうじゃん』って話しながらうちのおじいちゃんが買ってきて、それをいじったのが最初かな」

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益子町に到着して、まず最初に訪れたのは「濱田庄司記念益子参考館」だった。陶芸家である濱田庄司が創作の上で参考にした世界中から集められた作品の数々を、一般の人々にも同じように見てほしいという願いから開設された。

70年代の終わりから80年代初頭にかけて一般に浸透したコンパクトカメラ。それまでのカメラといえば、状況に合わせてシャッタースピードや絞りなどを調整して撮らなければならなかったが、コンパクトカメラの誕生によってすべての設定がオートマチックになった。だから小学生でも簡単にカメラを操れるようになったという。

「ファインダー越しに見ていた景色がプリントされて実体化するのが面白かったんだと思います。いまだとデジタルが主流だからすぐにチェックできるけど、昔はそうじゃなかった。プリントが上がってくるまで時間がかかったし、小学生だからそのあいだに刺激的なことがたくさんあるでしょう? だからシャッターを押したことも忘れてるはずなんだけど、ぼくはなんか覚えてたんですよ。それがおもしろくて、いろいろ撮るようになったんです」

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ランドセルを背負いながら、荷物のなかには教科書や文房具のほかにカメラがあったという。放課後になるとそれを取り出して、同級生を撮ったり、下校途中の景色にレンズを向けていたそうだ。

「授業中はさすがに撮らなかったけど、放課後は先生がいなかったから。すぐに家に帰らずに友達を撮ったり、ブラブラ寄り道しながらいろんな風景を写真に収めていました。小学生だから自分の学区の外に出ることすら冒険でした。でもね、そうゆう行為がすごく楽しかったし、好きだったんです」

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写真を撮ることに自分の存在意義を見出した。

そうして写真を撮ることの楽しさを享受してきた若木さん。もちろんそれは中学生になっても変わらず、むしろその頃から職業として写真家を志すようになったという。

「友達を撮った写真が雑誌のコンテストで賞を獲って、賞金をもらえたんですよ。それがきっかけで“写真家”というものが自分のなかですごく具体的になって。ぼくはスポーツができるわけじゃないし、絵が上手いわけでもなかった。でも、写真だけはほかにやっている人がいなかったんです。だから立ち位置が明確だった。自分の存在意義のようなものを感じたのかもしれませんね」

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当時の若木さんが影響を受けていたのは雑誌。本屋へ行き、片っ端から雑誌を読んでいたという。

「ぼくは『ZOOm』や『PHOTO JAPON』が好きだったな。洋雑誌のような雰囲気があって、外国の写真記事が多く掲載されていて、『かっこいいなぁ』なんて思いながら眺めていました。当時は80年代で、日本も海外の広告写真に影響を受けている時代だったんです。そのなかでぼくはファッションの写真が好きになって、自然と気持ちがアメリカに向いて行ったんですよね。ブルース・ウェーバーやメイプル・ソールなどの写真家が当時のアメリカの活気を映し出していて、それに憧れたんです」

そうしたアメリカに対する憧れが高校時代の若木さんの心を支配する。当時は時代のムードもアメリカに向いていた、と若木さんは話す。留学という選択肢はこの頃から徐々に芽生えたそうだ。ニューヨーク州にあるロチェスター工科大学。芸術の分野ではアメリカのなかでもトップレベルの大学で、数多くの写真家や芸術家を輩出しているという。若木さんは、この大学の写真科を卒業している。

「技術的なことよりも、写真とは? みたいな命題のようなことをそこで学びました。自分が撮った写真に対して説明をしたり、人の撮った写真をどう思うか? みたいなことを授業で討論するんです。だからいろんな写真を見せられて、インプットした記憶がありますね。相変わらずブルース・ウェーバーは好きだったし、リチャード・アヴェドン、ニック・ナイトもいいなって思っていました。あとはロバート・フランクとか、リー・フリードランダーといった60年代から70年代のストリートを映し出す写真家たちにも影響されましたね」

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そういったカルチャーに後押しされながら、若木さんの写真のスタイルも変化していったという。

「影響されてなんぼですよね。当時は写真だけじゃなくて、映画や音楽もそう。気になるものは片っ端から観たり聴いたりしていました。たくさんのアートにも触れましたし。昔に限らず、いまもいいなぁと思うことはたくさんあります。でも、いまはもうスタイルを変えようとは思わないです」

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アンティーク家具や衣類、そして地元である益子でつくられた陶器を扱う「pejite」。約60年前に建てられたという米蔵を改装した店内は、広々として落ち着いた空間が広がり、まるで時が止まったような錯覚を起こす。

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