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2021.03.04

【Jeepオーナーインタビュー】新作ラングラーとともに走り続けるフォトグラファーとしての道程

水曜日のカンパネラ、サカナクション、THE YELLOW MONKEYといった人気ミュージシャンの撮影を始め、さまざまなメディアで活躍するフォトグラファーの横山マサト氏。RealStyleでも数多くの撮影を担当し、Jeepフォトコンテストの審査員も務めている横山氏における写真の原体験、転機となった撮影、そしてJeepとともにあるライフスタイルについて聞いた。

三重県の田舎で育った少年は、ひそかに“東京”を夢見ていた。ただし幼少期はみんなが外で遊んでいても、部屋でひとり絵を描いているような内気な性格。それを見たご両親が心配して名古屋の児童劇団に通わせると、少年は子どもながらに華やかな世界へぼんやりとした憧れを抱いた。TVで見たダウンタウンに憧れ、好きな音楽は尾崎豊長渕剛矢沢永吉という男にとってのハズレなし三連単。エンターテインメントやミュージック、アートを欲した少年はその後、大学に進学するため念願の東京へ。少年期に抱いた憧れの反動なのか、貪欲に目に写るものを吸収していき、紆余曲折の末にたどり着いたのが“フォトグラファー”という天職だった。

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写真なら自分で監督をできて、撮影もできて、照明もできる

横山氏が写真に出会ったのは大学時代。ただし専攻は映画学科で、そのときに夢見ていたのは“映画”のカメラマンだった。……というのは後付けで、実際のところ横山氏はTVディレクターを目指して放送学科を受験するも不合格。なぜか倍率の高い映画学科のみ合格したというのが真実だ。

「ただ入学して1・2ヶ月でめちゃくちゃ面白いと感じたんです。さらにその間、フィルムカメラで写真を撮る同級生とかがいて、その影響で自分もフィルムカメラを使うようになり、文化祭で写真の展示をしたこともありましたね。全然大したことのない写真でしたが、今振り返るとそれが写真の原体験なのかなと思います」

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そこから横山氏の熱量は冷めることなく、大学卒業後は「照明を学んでから撮影」という考えから映画の照明部へ。ただし当時の映画業界は“ガチガチの体育会系”で、一人前になるまで何十年もキャリアを積む必要があった。照明部で1年ほど駆けずり回ったときに感じた道のりの遠さ。そこで横山氏の脳裏によぎったのが“写真”だった。

「写真なら自分で監督をできて、撮影もできて、照明もできる。さらに最低でも1クールは拘束されてしまう映画とは違って、毎日異なる現場へ新鮮な気持ちで望める“スピード感”は飽き性の自分に合うなとも思いました。それで僕は音楽が好きだったので、25歳ぐらいのときにまずは音楽系を撮影しているフォトグラファーの直アシ(スタント)になりました。ただし、照明を少しやっていたとはいえ、ストロボの使い方などわからないことがたくさんあったので、師匠に紹介してもらったのが今回の撮影をしたスタジオ・アートプラザ。このスタジオはタレント事務所が真裏にあるのでそちらに所属するタレントさんの撮影が多かったのですが、僕が入った理由はただ一つ。荒木経惟さんがこのスタジオしか使わないことを知っていたからです」

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敬愛する写真家をきっかけに入ったスタジオで2年半、現場で無意識に反応できるまで撮影の基礎を身体に叩き込んだ。そしてその成果はすぐに現れ、スタジオマンとしての最後の半年は毎日ロケに指名される引っ張りだこの存在に。加えて、付いていくカメラマンによく言われていたのは「お前、俺より(撮影対象と)仲良くなるね」だった。その被写体との距離の縮め方と、仕事仲間から愛される素質は、横山氏のその後を形成していく大きな強みとなる。

“もう一生これがいい”と思えるぐらい惚れ込んだチェロキーXJ

20代後半は高円寺に住み、革ジャンを着て、バイクに乗ってロックンローラー風だった横山氏。あるとき下北沢のBASEMENT BARでロックミュージシャン・遠藤ミチロウ氏のライブがあることを知り、飛び込みでライブ撮影をお願いしたこともあった。さらにスタジオの壁にライブ写真を飾っていたところ、出入りしていたあるカメラマンの目に留まり、アーティストのツアーパンフレットや東京ドーム・ライブの撮影を依頼されたことも。

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下積み時代にコツコツ貯めたお金で機材をそろえ、27歳でフリーランスとして独立。そんなときに出会った仕事の相棒がJeep……ではなく、最初の1台はスタジオ時代の先輩に薦められた某高級車のオープンカーだったのは今や笑い話。「これに乗ったら面白いから仕事がくるぞ!」と言われて決めたものの、車両価格が高すぎて当時唯一買えたのがオープンカーだったため、開放的ながら狭い車内に機材を積んで仕事に行っていたという。

「半年ぐらい乗ったけどやっぱり限界を感じて、そのクルマを売ったお金で買ったのがJeepのチェロキーXJ。ようやく機材もたくさん積めるクルマに乗れると思いましたね。そのときにはJeepさんともうお仕事をさせていただいていて、取材のときにXJを撮影したことがあったんです。一目惚れしてオーナーの方に“中古も探せばたくさんあるよ”と教えてもらい、探してみたらぴったりの1台が見つかったのですぐ買いました」

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▲1991 Jeep Cherokee Briarwood(写真協力:FCAジャパン株式会社)

横山氏がJeepで譲れないポイントはまずロゴ。XJは中古だったためど真ん中にロゴがなく、ディーラーさんに探してもらってわざわざ付けたという。もちろん、一目でJeepとわかる無骨さや男臭さは横山氏をとりこにした。

「それまでJeepは“絶対欲しい!”と思っていたわけではなかったのですが、唯一印象にあったのは長渕剛。好きだった長渕が“JEEP”というアルバムを出していたのでプラスのイメージしかなかったですし、実際乗ってみたら“もう一生これがいい”と思えるぐらい惚れ込んで乗っていました」

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